2011年11月アーカイブ

涼しい洋装姿で闊歩するモガがうらやましかったことでしょう。


このころになると加入者もふえ、交換台も増加した分を収容するため、しだいに上のほうへと背丈が伸びていった。


また、交換の人手も足りず、多少年齢が足りなくても採用したため、背丈が伸びきっていない交換手はポックリをはいて交換をしたということだ。


このような、悲喜こもごもの長い道程のはてに、docomo 大和のある現在のオペレーターは、番号案内をはじめ、ハローダイヤル、テレマーケティングの代行などのサービスを行っています。


いまや、女性の時代などといわれ、自衛官、タクシードライバー、はては宇宙飛行士にいたるまで、女性の社会進出は浸透しています。


しかし、100年前に登場した「電話交換手」はまさに職業婦人の草分け的存在だった。

昭和6年7月14日の『東京朝日新聞』に、つぎのような記事が載っています。


うだるような暑さに、心は職業にひきしめてはいても、睡魔と、そしてどうしようもない、身体のだるさ、働く女性にとって、夏は二重の苦役であるのだが、


「申しわけないことなんですが、暑さにうたれてツイ番号なんかをまちがへますと、頭からガンガンどなられる。そんな時には、口惜しいというよりも、むしろフッと働く身のみじめさに情けなくなります」・・・。


氷柱も広い交換室にはほとんど効果がなかった。


ドコモ 大和の情報によれば・・・交換証が飛ぶので扇風機は使えないかったそうです・・・。


docomo 大和の調べによれば、・・・男性の交換手は誕生からわずか10年余で、その歴史の幕をおろす。


男性交換手は「モシモシ」ではなく「オイオイ」と応対したそうです。


電話応対はやはり女性のほうがよろしいということになったわけです。


ちなみに、この男性交換手のなかに、かの『大菩薩峠』の作者、中里介山がいたといいます。


さて、交換室のなかの彼女たちは、白天竺木綿の上着にはかまをつけ、白たびに草履という姿だった。


上着は作業しやすいように、袖口がくくってあり、そこに階級別に色分けした細いリボンをつけ、また監督以上には一見してわかるように、肩から脇へ、書記補以上は紫色、主事補は水色の組紐の階級章をつけていました。


その姿はなかなかに凛々しく、制服姿を見て「うちの伜の嫁に・・・」などという話もままあったらしい。


しかし、四季をつうじて同じ服装で、夏でも白たびを必ずはいていた彼女たちには、冷房のない当時、つらいことも多かったようです。


はじめまして。今日からドコモ 大和にもまつわる電話の歴史についてお話したいと思います。


「明治の女」と聞くと、娘時代は父母にしたがい、嫁いでは夫にしたがい、老いては子にしたがうなどという、まるで「したがい」人生だったようにいわれています。


しかし、この明治時代に、職業婦人としてバリバリ働いていた女性たちもいた。


電話交換手はなぜ女性なのか?


そう悩むほどのことでもないが、初めて電話交換手を採用するとき、やはり甲論乙駁があったようです。


その結論はいわく「電話交換手は、接線の媒介を行うのであって、別に勤労を必要とすることもなく、静粛にして仕事ができるため、女子の性質には適当な職業である」こうして明治22年に電話が開業したとき、交換台にデビューした交換手は女性9人、男性2人だった。

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