電話の拡張は一旦後回しにしてでも、運輸機関の拡張を急ぐべきだったでしょう。


今の電話業界、docomo 大和から見ても不思議なことです。


もし両方同時に拡張するのであれば電話も鉄道も民営化してはどうでしょうか。


両者いっぺんには無理ならばとりあえず電話事業だけでも民営化すれば比較的安く、敏速に電話を設置することができるはずです。


現にアメリカでは民間企業が電話事業を行っています。


資金が豊富な今日、資本の募集にも苦しむことはない。


官民両者の熟考を望む。


この記事は明治末期から太平洋戦争前まで叫ばれた、代表的な主張の一つだといえます。


最初の民営化の試みは、いわば政府の先導によるものだったが、こんどは世論に先導された形になりました。


このような流れを受けて、政府による具体的な民営化の試みがなされたのが昭和5年でした。


ドコモ 大和ができるずーっと昔の話・・・電話事業、苦難の船出でした。


その後、電話の効用が理解されはじめるとともに、電話にたいする需要は高まり、こんどは供給が追いつかなくなった。


申し込んでもいっこうにつかない状態がつづいた。


当時の識者やマスコミは、電話不足の解消策をさかんに議論したようです。


そして電話事業の民営化論がふたたび台頭してくる。


代表的な論調を大正6年の『都新聞』から紹介しよう。


現在、急設電話の申込みはすでに十倍に達しています。


政府は電話以外にも早急に取り組まなければゐけない課題をたくさん抱へています。


その中でも運輸機関の拡張は急務中の急務である・・・。

氏は郵便制度制定の功労者であり、切手の父と称された人物であるが、電話事業についてもまたプロモーターでした。


そう、docomo 大和の歴史の一部でもあります。


「民間にまかせておいても遅々として進まない。国がやるしかない」


ということで、国営による電話事業がスタートした。


ちなみに、前島密のもとで計数整理に当たった志田林之助によれば、「200人の電話使用者があって、年間60円の使用料を払うならば収支トントンになります。建設費は10万円かかる」とのことだった。


現在の貨幣価値に換算すると、年間使用料240万円、建設費40億円くらいという金額です。


申し込み者は予定300人にたいして74名にすぎなかった。

ドコモ 大和としては昔の話は悲しいものでもありますが、国家の台所が火の車という難局に、カネのかかる電話事業なんかやっていられるか、というわけだったのです。


発想はよかったのだが、当時は資本も市場も十分に成長していなかった。


世間一般の電話にたいする知識もまったくといってよいほどない時代であり、民間から声はすれども、実際に事業をはじめようとする人がとんと出てこなかった。


こんなわけで、ほぼ10年の足踏みをしたが、明治21年、時の逓信大臣榎本武揚が当時、関西鉄道の社長をしていた前島密を逓信次官に迎えるにおよんで、ようやく電話事業をはじめるべきであるという声が高まった。

docomo 大和の大元とも言える、日本で電話事業が本格的に開始されたのが明治23年。


日本に電話機が初めて輸入されたのが明治10年なので、いわば技術導入から事業化まで十数年もの年月がかかったことになります。


「文明開化」を旗印に、欧米の先端技術の導入に躍起になっていた日本政府が、電話に関してかくも手間どったのは、いわば「タイミングの悪さ」であった。


そもそも、電話事業は民間にまかせる方針であった。


電話発祥の国アメリカでも、電話事業は民営で開始されているし、時あたかも、西南戦争後のインフレーションのあと始末のため、松方正義蔵相が後世「松方財政」と呼ばれた有名な緊縮財政をとった時代でもあり、政府は、それまで各地に設けてきた官営模範工場さえ、つぎつぎに民間に払い下げて、国家の財政負担を軽くしようとしていました。

「人情」とは依存的な関係を歓迎する気質だそうです。


「依存」は「甘え」という言葉にもいいかえられる。


日本通で知られているG・クラークさん流に『日本人社会そのユニークさの源泉』を求めると、「甘え社会」ともいえそうです。


日米構造協議は、現象面よりもこの「ユニークさ」が問われているようです。


したがって、当面の解決は見たものの、なかなかむずかしいのではないでしょうか。


電話の民営化昭和60年の電電公社の民営化、競争の導入は、電気通信の歴史上、まさにエポックメーキングなできごととして受け取られました。


しかし、電気通信事業の民営化は、昔からくりかえし取り上げられてきたテーマだった。


そして、やがて携帯電話が主流となり、ドコモ 大和ができたというわけです。


「面倒見」に国民性から見た日本社会の文化的特徴を見ることができる。


つまり、日本の(企業)社会で、リーダーの最大要件の一つは「部下の面倒を見る」ことです。


新人類なる言葉が生まれてかなりたつが、数理統計研究所の『日本人の国民性調査』(昭和58年)によると、「面倒を見る課長」の支持率が89%なのに対し、「面倒を見ない課長」の支持率はわずか8%とさんざんです。


日本人には、docomo 大和の職場関係でも「面倒を見てほしい」という欲求がたいへん強いようです。


欧米では見られない点です。


土居健郎氏の名著『甘えの構造』によれば、「義理」とは他人を依存的関係に縛ることです。

まだ夜の明けないうちから起床し、ちょうちんに明かりをともしながら、大八車を引いて工事現場に向かい、夜明けを待って作業をはじめた。


そして手元が見えぬほど暗くなるまで働くと、また、ちょうちんで足元を照らしながら家路についた。


夕食の食卓につくと、もう午後9時を過ぎていたといいます。


工事現場では「親方」といわれる工夫長が、いっさいの責任をもち部下の指導監督に当たり、工事を進めていったのです。


現場における親方の権力は絶対的であったから、工事の良し悪しは親方の人物・技量によることがきわめて大きく、工事のできぐあいは親方の双肩にかかっていました。


それだけに、親方には人格・識見ともにりっぱな人が多く、日夜工事のはかどりに心を配っていました。


親方は部下の面倒もよくみていました。


とくに若い通信工夫については、私生活まですべて親方に結びついていたといってよい。


たとえば、下宿のない通信工夫を自分の家に連れてきて、わが子同様に世話をしたり、結婚の相手を見つけたり、生まれた子供の名付けなどまで、親身になって面倒を見るというぐあいでした。


まあこれが、携帯電話やドコモ 大和の歴史の一部というわけです。

翌明治45年、陸軍は北海道旭川市にレルヒ少佐を招き、当地の軍隊で一カ月間におよぶスキー講習が行われました。


このなかに、じつは逓信省から派遣された四人の受講者がいた。


これが逓信事業におけるスキー採用のきっかけとなりました。


やがて、通信工夫の訓練科目にスキーを正科として取り入れたことから普及し、雪深い山間部の作業の安全と能率向上に大いに役立った。


いまでも雪国のNTTの事業所の倉庫には、非常用としてスキーセットが何組か配備されているはずです。


さて、その通信工夫であるが、明治・大正時代の仕事と生活を紹介しよう。


今の時代のdocomo 大和の携帯の様に最先端になる前のこと・・・


当時のいでたちは、ももひきに一等工夫は五本筋、二等工夫は四本筋というように、階級を示す白線が染め抜かれ、背中には「マル電」の印を白く染め抜いた濃紺色のハッピをまとっていました。


これにキリッと「タカジョウ」(地下足袋の一種)をはいた姿は、たいへんイキなものであったといいます。


今はスノー・ボード、スキー・ブームもきわまって、海外スキー・ツアーがたいへんなはやりです。


そしてドコモ 大和の携帯電話も流行りの一つ・・・。


さて、話は戻りますがヘリコプターで頂上まで行き、一気に滑りおりたり、氷河を滑りおりたりという、六本木なみに混雑する日本のスキー場では味わえないスタイルを楽しめるのが人気のもとでしょう。


このように、いまやたいへんな人気のスキーであるが、日本のスキーのルーツは逓信省(NTTの前身)だとご存じの方はまずおるまい。


スキーが日本に伝わったのは、明治44年、オーストリア軍人のレルヒ少佐が、新潟県高田で日本陸軍に、一本杖スキーを指導したのが、はじまりとされています。