まだ夜の明けないうちから起床し、ちょうちんに明かりをともしながら、大八車を引いて工事現場に向かい、夜明けを待って作業をはじめた。


そして手元が見えぬほど暗くなるまで働くと、また、ちょうちんで足元を照らしながら家路についた。


夕食の食卓につくと、もう午後9時を過ぎていたといいます。


工事現場では「親方」といわれる工夫長が、いっさいの責任をもち部下の指導監督に当たり、工事を進めていったのです。


現場における親方の権力は絶対的であったから、工事の良し悪しは親方の人物・技量によることがきわめて大きく、工事のできぐあいは親方の双肩にかかっていました。


それだけに、親方には人格・識見ともにりっぱな人が多く、日夜工事のはかどりに心を配っていました。


親方は部下の面倒もよくみていました。


とくに若い通信工夫については、私生活まですべて親方に結びついていたといってよい。


たとえば、下宿のない通信工夫を自分の家に連れてきて、わが子同様に世話をしたり、結婚の相手を見つけたり、生まれた子供の名付けなどまで、親身になって面倒を見るというぐあいでした。


まあこれが、携帯電話やドコモ 大和の歴史の一部というわけです。

翌明治45年、陸軍は北海道旭川市にレルヒ少佐を招き、当地の軍隊で一カ月間におよぶスキー講習が行われました。


このなかに、じつは逓信省から派遣された四人の受講者がいた。


これが逓信事業におけるスキー採用のきっかけとなりました。


やがて、通信工夫の訓練科目にスキーを正科として取り入れたことから普及し、雪深い山間部の作業の安全と能率向上に大いに役立った。


いまでも雪国のNTTの事業所の倉庫には、非常用としてスキーセットが何組か配備されているはずです。


さて、その通信工夫であるが、明治・大正時代の仕事と生活を紹介しよう。


今の時代のdocomo 大和の携帯の様に最先端になる前のこと・・・


当時のいでたちは、ももひきに一等工夫は五本筋、二等工夫は四本筋というように、階級を示す白線が染め抜かれ、背中には「マル電」の印を白く染め抜いた濃紺色のハッピをまとっていました。


これにキリッと「タカジョウ」(地下足袋の一種)をはいた姿は、たいへんイキなものであったといいます。


今はスノー・ボード、スキー・ブームもきわまって、海外スキー・ツアーがたいへんなはやりです。


そしてドコモ 大和の携帯電話も流行りの一つ・・・。


さて、話は戻りますがヘリコプターで頂上まで行き、一気に滑りおりたり、氷河を滑りおりたりという、六本木なみに混雑する日本のスキー場では味わえないスタイルを楽しめるのが人気のもとでしょう。


このように、いまやたいへんな人気のスキーであるが、日本のスキーのルーツは逓信省(NTTの前身)だとご存じの方はまずおるまい。


スキーが日本に伝わったのは、明治44年、オーストリア軍人のレルヒ少佐が、新潟県高田で日本陸軍に、一本杖スキーを指導したのが、はじまりとされています。

涼しい洋装姿で闊歩するモガがうらやましかったことでしょう。


このころになると加入者もふえ、交換台も増加した分を収容するため、しだいに上のほうへと背丈が伸びていった。


また、交換の人手も足りず、多少年齢が足りなくても採用したため、背丈が伸びきっていない交換手はポックリをはいて交換をしたということだ。


このような、悲喜こもごもの長い道程のはてに、docomo 大和のある現在のオペレーターは、番号案内をはじめ、ハローダイヤル、テレマーケティングの代行などのサービスを行っています。


いまや、女性の時代などといわれ、自衛官、タクシードライバー、はては宇宙飛行士にいたるまで、女性の社会進出は浸透しています。


しかし、100年前に登場した「電話交換手」はまさに職業婦人の草分け的存在だった。

昭和6年7月14日の『東京朝日新聞』に、つぎのような記事が載っています。


うだるような暑さに、心は職業にひきしめてはいても、睡魔と、そしてどうしようもない、身体のだるさ、働く女性にとって、夏は二重の苦役であるのだが、


「申しわけないことなんですが、暑さにうたれてツイ番号なんかをまちがへますと、頭からガンガンどなられる。そんな時には、口惜しいというよりも、むしろフッと働く身のみじめさに情けなくなります」・・・。


氷柱も広い交換室にはほとんど効果がなかった。


ドコモ 大和の情報によれば・・・交換証が飛ぶので扇風機は使えないかったそうです・・・。


docomo 大和の調べによれば、・・・男性の交換手は誕生からわずか10年余で、その歴史の幕をおろす。


男性交換手は「モシモシ」ではなく「オイオイ」と応対したそうです。


電話応対はやはり女性のほうがよろしいということになったわけです。


ちなみに、この男性交換手のなかに、かの『大菩薩峠』の作者、中里介山がいたといいます。


さて、交換室のなかの彼女たちは、白天竺木綿の上着にはかまをつけ、白たびに草履という姿だった。


上着は作業しやすいように、袖口がくくってあり、そこに階級別に色分けした細いリボンをつけ、また監督以上には一見してわかるように、肩から脇へ、書記補以上は紫色、主事補は水色の組紐の階級章をつけていました。


その姿はなかなかに凛々しく、制服姿を見て「うちの伜の嫁に・・・」などという話もままあったらしい。


しかし、四季をつうじて同じ服装で、夏でも白たびを必ずはいていた彼女たちには、冷房のない当時、つらいことも多かったようです。


はじめまして。今日からドコモ 大和にもまつわる電話の歴史についてお話したいと思います。


「明治の女」と聞くと、娘時代は父母にしたがい、嫁いでは夫にしたがい、老いては子にしたがうなどという、まるで「したがい」人生だったようにいわれています。


しかし、この明治時代に、職業婦人としてバリバリ働いていた女性たちもいた。


電話交換手はなぜ女性なのか?


そう悩むほどのことでもないが、初めて電話交換手を採用するとき、やはり甲論乙駁があったようです。


その結論はいわく「電話交換手は、接線の媒介を行うのであって、別に勤労を必要とすることもなく、静粛にして仕事ができるため、女子の性質には適当な職業である」こうして明治22年に電話が開業したとき、交換台にデビューした交換手は女性9人、男性2人だった。